ヴァルドルフ/シュタイナー教育におけるICTカリキュラムの骨格を形づくる

ヴァルドルフICTカリキュラム

ヴァルドルフ/シュタイナー教育におけるICTカリキュラムの骨格を形づくる

Created by Masashi Satoh | 9/17/2024

  • 本記事は機械翻訳のための原稿として作成しました。そのため、日本語としてはやや不自然な表現となっている箇所がありますこと、ご了承下さい。
  • 上記の理由およびわたし自身の考えから、日本で一般的な「シュタイナー教育」は「ヴァルドルフ教育」で表記を統一しています。

はじめに

ヴァルドルフ教育にとって、ITC技術の学びはフロンティアと言うべき境域です。ルドルフ・シュタイナーの時代にはコンピュータ技術の片鱗もなかったのですから、ICT技術の学びについてのカリキュラムの開発は、私たち自身に委ねられているのです。

2013年、わたしは東京賢治シュタイナー学校のヴィリギリウス・フォーグル先生の元を訪れて、彼がコンピュータの学びとして9年生に導入していたリレーによる加算機の製作について詳しく教えてもらいました。私は9年生にこのような高度な学びができることに、驚きを禁じ得ませんでした。*

*ドイツのシュトゥットガルト近郊の学校での実践を取り入れたとのこと。その学校の情報は分かり次第掲載します。

さっそくこの学びを自分の職場である横浜シュタイナー学園にわたしは持ち帰り、次年度に9年生を迎える第1期生のクラスのためにコンピュータ授業の準備を始めました。その際、私は、このリレー式計算機の学びを軸にしながら、より包括的な学びを構築することを目指そうと考えました。

事物の本質の学びの中心に人間を置くヴァルドルフ教育の学びとして、ICT技術のカリキュラムと教授法をどのように構成し位置づけたらよいのか、その学びをパーソナルコンピュータの使い方やリテラシーの学びにどのように接続するかについて、明確な見通しをもったプランを作りたいと考えたのです。

10年以上の実践の積み重ねと、その後、高等部をもつ愛知シュタイナー学園でも教える機会をいただけたことから、目指していたプランはある程度かたちにすることができました。

ヴァルドルフ教育の長い歴史をもつ欧米の実践について知る機会が限られたわたしの知見では、この取り組みがどの程度の価値をもつのかわかりません。先行する取り組みもたくさんあると思いますが、もしもこの報告と論考がヴァルドルフ教育におけるICT領域のフロンティアを切り拓く試みのひとつとして、なにがしか世界に資すものがあればと考え、公開するものです。

出発点となる考え

近年の生成AI技術の発展にその典型を見るように、コンピュータ技術は劇的な速度で発展を続けています。

ヴァルドルフ教育は社会と切り離された営みではありませんから、私たちは、新たに現れてくる技術革新について常に開かれた姿勢で向き合っていく必要があります。

一方で、次のように私たちは言うことができます。私たちが為すべきことは、社会の変化のなかで、ヴァルドルフ教育の骨格がぶれることがないのと同じように、技術の目まぐるしい進歩に翻弄されないような、ICT教育の骨格となる本質的な学びを見極めることです。

わたしが同僚とICT教育について話し合っていて気づいたことは、多くの同僚たちがコンピュータ技術を物理の学びにおける電磁気学単元につながっている技術だと誤解していることでした。

そのことを考察することで徐々に明らかになったのは、まずこの思い込みから私たちが自由になることがコンピュータ技術の学びを創出するための基盤となるということでした。

つまり、コンピュータの仕組みを構築する論理回路はそれを実装する仕組みとは独立したものであり、電気的な仕組み自体はコンピュータの原理とは関係がないという認識をわたしたちは考察の出発点にしなければならないということです。

たとえば、世界で初めて完璧なディジタルコンピュータを設計した18世紀の数学者チャールズ・バベッジは、ギヤとカムを蒸気機関で駆動する巨大な装置 ― 解析機関としてそれを構想しました。

コンピュータの実体は、それを実現している物理的な仕組みから独立しています。コンピュータの実体は論理の組み合わせであり、それらは人間の精神的な活動としての論理的思考のなかに実体をもっているのです。

このことがわたしたちの基盤となります。

さらにもうひとつ、別の観点をわたしはここに加えたいと思います。それは、ヴァルドルフ教育において常に大切にされている、歴史を通して世界を見ようとする視点です。

まず、コンピュータ技術にも人類の精神史が刻まれていることを認識することが大切です。その上で、その歴史的事実の中からコンピュータの諸技術におけるアーキタイプと呼びうるような要素を抽出するのです。

それらのアーキタイプを柱としてコアカリキュラムを構築できたならば、最先端技術の爆発的な発展に翻弄されるリスクをわたしたちは回避することができるでしょう。

黎明期のコンピュータ技術の発展やコンピュータサイエンスの発展史を静かに振り返ってみると、そこには人間の思考を空間的な広がりと時間的なプロセスに整理して見通していく思索の課程を見て取ることができます。それらがまさに、自らの精神に目覚めてゆく青年期の学生の精神生活を深く満足させる素材であることにわたしたちは気づくべきだと考えます。

また、そればかりでなく、それらのなかに、検索エンジン、ブロックチェーン、生成AIなどの最先端の技術の本質を理解するための鍵が、シンプルなかたちで存在していることをわたしたちは見いだせるのです。この素晴らしい宝を見過ごして、やみくもに最先端を追うことは教育における損失です。

コンピュータの学びのエッセンス

もう一度コンピュータ技術の本質を整理しましょう。シーソーの上下、スイッチのON/OFFなど、適当な物理的事象に対して人間精神が論理的な意味づけを行い、その論理が全体を通して貫徹されるように組み合わせた機械がコンピュータという装置でした。

コンピュータの動作を実現する物理現象とコンピュータ自体を構成する論理には、直接的な関係はないのです。

コンピュータが純粋に抽象的な思考に基づいて誕生した技術であること ― このことが意味するのは、コンピュータの学びでは、ヴァルドルフ教育の物理や化学の学びのような、観察に基づく「ソクラテス的産婆術」は通用しないということです。だからわたしたちは、コンピュータ技術の学びの基盤を、別のところに探す必要があります。

その基盤はコンピュータの論理の故郷である人間の思考のなかに求められます。

人間の論理的な思考内容を特定の物理現象の上に投影した装置がコンピュータであり、コンピュータを構成する要素それぞれに、必ずそれを考案した人間精神が結び付ついています。その関係性に光を当てていくことこそが、コンピュータの学びの核心なのです。

非常に密度の高いヴァルドルフ学校高等部の学びのなかで、ICTの学びに割ける時間が限られていることを考えれば、ICTの学びはコンピュータ技術を構成する核となるいくつかの要素と人間精神の照応関係を取り扱う内容に集中させる必要があります。

「最先端」の技術について触れたい場合は、現代の社会と関連付けながらエピソード的に触れる程度に留めます。

ルドルフ・シュタイナーは、自由ヴァルドルフ学校開校前の教員養成講座において、テクノロジーの学びの目的について次のように述べています。13才(7年生)から16才(10年生)の生徒が、自分たちの生活環境を形づくっている技術やその応用について生き生きとした学びを通して触れることで、彼らが社会に出たときに、その学んだという体験が彼らの行動に確かさを与え、その確かさが社会の中で彼らが生きていくための自信につながるのだと。*

重要なのは知識ではなく、社会を構成する事物に生き生きと関心をもって触れたことがあるという、その経験それ自体であるわけです。

ヴァルドルフ学校の外国語の授業が、語学能力の獲得を直接的な目標に置かないように、ICTの学びもまた、何らかのスキルの獲得のような功利主義が過度に入り込まぬように、教育的な本質がどこにあるのかを明確に見定めて必要があるのです。

* 1919年9月3日の方法論と教授法の講義第12講

コア・カリキュラムの一案

以上のような方針に立って、限られた時間のなかで取り組むべきICTの学びについて、わたしは以下のように整理してみました。これはあくまでも箇条書き的な記述であり、それぞれの具体的な内容については別のページにて説明する予定です。

デジタルコンピュータの発展史を時代背景とともに物語ること:

導入となる歴史的な物語を通して、コンピュータ技術が人類史の文化的なコンテキストのなかにあることを生徒は理解します。アナログとデジタルの違い、アナログコンピュータとデジタルコンピュータの違いについても、このセクションにおいて説明するとよいでしょう。

わたしはこのセクションで、以下のコンピュータ(計算機でなく)を取り上げています。なぜこの選択になったのかは、別項で述べる予定です。

  1. アンティキテラ島の機械(アナログコンピュータとして)
  2. バベッジの解析機関(初めて設計されたデジタルコンピュータ)
  3. ツーゼのZ1(個人が作り上げた)
  4. ENIAC(陸軍が弾道計算用に開発)
  5. UNIVAC I(初の商用マシン)
  6. IBM SYSTEM360(初の汎用マシン)

論理の働きを機械的な仕組みで理解すること:

まず論理(AND, OR, NOT, Buffer)について学び、その物理的実装について考察します。このセクションで、機械的な仕組みで論理を実装できることを理解することが重要です。コンピュータ=電子計算機という先入観を解除すること、論理の実装をブラックボックスの中から引き出すことが、これによって可能になります。

わたしの場合は、シーソーの仕組みを用いています。ド・モルガンの法則を用いてOR回路からAND回路を導くようにすると、観察から出発するのではなく、人間の思考を出発点として仕組みを導き出していくコンピュータ技術の特質がわかりやすくなるでしょう。

すでに広く実践されているリレーを用いた多桁の加算機の製作:

この学びは、人間の思考上のロジックを物理的な事象に定義づけて、機械的に操作可能にする方法(あたかも算盤上の石を動かすように)の理解に導くための良質の学びです。

わたしは加算機の実験に、さらに簡単なシーケンサー装置を接続して自動計算を行う実験を付け加えることを提案します。この要素が加わることで、「計算機の学び」が「コンピュータの学び」へと一気に飛躍するからです。これによって生徒たちは、時間軸上に配置されたプロセスを、人間が手順を追って計算を進めるのと同じように、コンピュータが順序よく実行することを体験的に理解します。

さらに、この学びの過程で、以下の内容を同時に扱うことができます。

  • クロック回路とメモリー回路:NOT回路とBuffer回路に帰還をかけることで、クロック回路とメモリー回路の原理を理解します。これは素晴らしい学びです。
  • 電信の実験:リレーの名前の由来を紹介するとともに、いくつかの中継局をつないで実際に電信の送信実験を行います。インターネットの伝送も同様の原理ですから、この学びがインターネットの学びでも役立ちます。

データモデルの学び:

加算機の学びは時間軸上の機械的プロセスの中に人間の思考を展開する仕組みの学習でした。それに対しデータモデルの学びは、空間的な広がりについての学びと言えます。生徒たちは、0/1の器であるメモリーの並びを人間が区画し、定義づけ、組織することで、数値などの事象がいかに表現されうるのかをイメージし、さらにそれらをいかに操作して目的の結果に導くのかを学びます。

学ぶデータタイプとして妥当なのは、整数型、浮動小数点型、文字列型、ポインター型、そして配列あたりでしょう。この学びを通して生徒たちは、世界の事象をデータとして表現することの奥深さや面白さとともに、その限界や落とし穴にも気づくことができます。そして、この学びの中に、検索エンジン、生成AI、ブロックチェーン技術などの本質を理解可能にする基本要素がすべて含まれているのです。データモデル-プロセス-操作のアルゴリズム、この3つによってプログラムは完成します。それゆえ、データモデルについての学びは、必須の学習要素だと私は考えています。

この学びは、板書とノートワークだけで構成することも可能です。

プログラミング:

今述べたとおり、プログラミング学習に先行してデータモデルの学びがあることが望ましいとわたしは考えています。まず最初に操作対象のデータがあって、それを操作するアルゴリズムが明快であれば、ふさわしいプログラムが自ずと見つかるでしょう。あわせて、データ中心に考えるあり方のなかに、オブジェクト指向プログラミングの萌芽がすでにあることにも注意を向けておきます。

データモデルもアルゴリズムも、いずれもコンピュータの中にあるものではなく、人間の内に概念や思考として存在するものです。プロセスの概念やデータモデルの考え方が身についていれば、プログラムの見かけの複雑さに惑わされることはより少なくなります。

もうひとつ大切なポイントがあります。プログラム言語の目的は、コンピュータに与える必要な手順を記述することですが、より重要なのは、プログラム言語が特定の思考の型を人間に提供する仕組みだということです。それは交通法規に似ていて、プログラマーが間違った方向に進まないように制限をかけ、辿るべき思考の道筋を照らし出すのです。

このことを教師が意識して指導すれば、プログラム言語のルールが有している意図との対話こそがプログラミングの本質であることを生徒も理解するでしょう。プログラム言語をデザインした人物の精神と自らの精神の共同作業が、プログラミングの営みなのですから。

アプリケーションの活用:

アプリケーションの利用に先行して、文字列型や配列の考え方を学ぶことで、私たちは生徒たちにワードプロセッサや表計算ソフト利用のパスポートを渡すことができるでしょう。なぜなら、データモデルの学びを通じて、生徒たちは、ワードプロセッサの背後でCPUが何を行っているのか(文字列操作)、表計算ソフトのなかでデータがどのように表現され処理されているのか(配列とポインターによる操作)について、想像することができるようになっているからです。

画面の背後、美しいユーザインターフェイスの背後に隠れてCPUが行っている泥臭く面倒な作業を生徒が想像できるようになること。これこそが、コンピュータの学びの神髄なのです。

インターネット:

驚くべきことに、ナポレオン時代の高速通信網技術である腕木通信技術は現在のインターネットの仕掛けをほぼそのまま実現していました。わたしはこの教材をインターネットの学びの基盤にすることを提唱しています。

これを学ぶことで、生徒たちは、人間を中心にした生き生きとしたイメージによってインターネット技術を理解できるからです。発明者のクロード・シャップや協力者のアブラアン・ルイ・ブレゲ、それを活用した革命政府やナポレオン、それらの歴史的な人間物語と板書だけで、インターネット技術の本質をわくわくしながら学べるこの素晴らしい教材に光が当たることをわたしは望んでいます。


コンピュータ技術と人間の自由および尊厳、リテラシー:

ICT学習の仕上げとして、コンピュータ技術が人間の尊厳と自由に介入してくる状況に対して、生徒一人ひとりがしっかりと自分の考えをもつことができるようになることを目指します。

コンピュータがあらゆる装置に組み込まれ、ネットワークに接続されている状況の出現によって、わたしたちのプライベートな領域が侵され、気づかないうちに第三者がわたしたちの意志の能動性に介入する危険は大きくなりつつあります。

スマートフォンを手にすることは、利便性と引き換えに自らの意志の能動性の少なからぬ部分をネットの向こう側にいる何者かに明け渡すことに他なりません。

子どもたちにタブレットを使わせるということは、クレヨンや鉛筆を使って、身体と意志すべてを用いて、繊細な曲線や直線を紙の上に描き、その質を感じ取って、自らにフィードバックしていくという極めて能動的な学びを彼らから奪うことに他ならないのです。

この津波のようなデジタルマーケットの圧力に対しては、もはや個人だけの力で抗することはできません。一人の人間の尊厳と自由を保護するためには、これまでのような内心の自由の保護だけでなく、自分の思想信条をかたちづくるプロセスにおいても望まない干渉を受けることを拒否できるような社会的方向性、たとえばデジタル立憲主義のような、についても学ぶ必要があります。

このような社会と個人の関係-法・国家の働き、企業・経済の責務、個人の尊厳と倫理等々 ― についての学びは、自由な精神を確立しつつある高等部後期の生徒たちの心に、強く響くに違いありません。

カリキュラムを構成する主要なブロック

上記の取り組みを4つのブロックに分けて理解すると、本論考の意図がより明確になるでしょう。

  • 第1ブロック:発展史、ロジック、加算機とシーケンサー
  • 第2ブロック:電信技術、インターネット、データモデル
  • 第3ブロック:プログラミング、アプリケーションの活用
  • 第4ブロック:コンピュータ技術と人間の自由および尊厳

第1ブロックおよび第二ブロックは、生徒たちがパーソナルコンピュータに初めて触れる前に取り組みたい学びの一群です。

昨今のPCの洗練されたユーザーインターフェイスに早期に触れた場合、生徒のコンピュータ技術のイメージは固定されてしまいます。その結果、深いレベルの学びに生徒を導くことが困難になるため、特に注意してカリキュラムを構成する必要があります。

第1ブロックでコンピュータの仕組みをある程度理解した後、実際にPCに触れてワードプロセッサやスプレッドシート、インターネットを実際に扱う第3ブロックに入る前に、それらの内部でどのような情報操作が行われているのかを学ぶ第2ブロックを通過することがとても重要です。

コンピュータは、現実世界を模倣し、自らの本性を偽装することによって発展してきました。わたしたち教育者は、生徒がコンピュータの魔法にかけられて仮想現実の虜になる前に、その真実の実体を生徒たちの前に明らかにしておく必要があるのです。

それは決して回り道ではなく、世界と対峙する人間精神のひとつのあり方を学ぶことができる、たいへん魅力的な学びです。

そして、第4ブロックは、私たちが人として生きることの意味、そのような個人が集まり社会を形づくることの意味、その社会が健全に発展していく上で、法治国家の役割、企業の役割、個人の責務と尊厳および自由の本質などについて*、デジタル社会の現実を踏まえながら探求する領域です。11年生、12年生あたりで集中して取り組むことも大切ですが、同時に第1~第3ブロックの授業の中にエピソード的に挿入することも効果があるでしょう。

重要なのは、第4ブロックの内容を12年間を通じたカリキュラムのあらゆる教科に統合してデザインしていくことでしょう。その意味では、包括的性教育と似たあり方をしていると言えます。

*ここに提示している観点は、もちろんルドルフ・シュタイナーの社会ヴィジョン ― 社会有機体の三分節化を念頭に置いています。

おわりに

以上のような教材を、それを生み出した人間精神との関係性に留意しながら扱うことが、ヴァルドルフICTカリキュラムの心臓になると私は考えています。

コンピュータを構成する部品にしろ、概念にしろ、それらの要素のひとつひとつは、本来、関係性をもたないばらばらの断片に過ぎません。それらを関連付け、整合させ、意味のある全体へとまとめ上げているものは人間の内なる精神なのです。このような、世界を世界たらしめている諸力を、生徒たちが自分の内に見いだすことこそ、ヴァルドルフICTカリキュラムの真の目的に違いありません。

ここまで長文をお読みいたき、感謝を申し上げます。

より具体的な実践内容については、別ページにて紹介しています。ご意見や質問などは、こちらのフォームからお寄せ下さい。

謝辞

私にドイツの素晴らしい実践を教えて下さったヴィリギリウス・フォーグル先生に心からの感謝を捧げます。学園のコンピュータの授業の始まりに私を担当として指名してくれた、長井麻美先生にも謝意をお伝えします。そして、私の授業中に仕事をバックアップしてくれた事務局のメンバーにも。

ヴァルドルフICTカリキュラム-インデックス
  1. ヴァルドルフ/シュタイナー教育におけるICTカリキュラムの骨格を形づくる
  2. The History of Computers(Currently being produced)
  3. リレーによる加算機回路製作の詳細
    1. シーソーによる論理素子
    2. The Mechanism and Role of Memory and Clock(Currently being produced)
    3. Learning about telegraph equipment(Currently being produced)
    4. シーケンサーについて
    5. About the Battery Checker(Currently being produced)
  4. インターネット
    1. インターネットの世界で起こっていること
  5. Learning Data Models(Currently being produced)
  6. Learning Programming and Application Usage Experience(Currently being produced)
  7. Human Dignity and Freedom in an ICT-Driven Society(Currently being produced)
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