アナログ情報とディジタル情報の違いの本質について

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アナログ情報とディジタル情報の違いの本質について

連続的と離散的:教科書的な定義への違和感

アナログ情報とディジタル情報の違いの本質とは何でしょうか。

多くの人は、「アナログ情報は連続的に変化する情報、ディジタル情報は離散的な情報」と答えると思います。もちろんそれが教科書的な回答なのだと思います。

でも、本当にそれが、アナログ情報とディジタル情報の本質的な違いでしょうか?

連続する情報であっても、ある瞬間だけを取りだした場合、変化を問題にすることはできないわけですから、連続的か離散的かの違いは意味をもたないでしょう。クォーツ式アナログ時計のステップ秒針は離散的な軌跡を描いて回転しています。

まあ、それは屁理屈だと言われてしまえばそれまでですが、職場で生徒にアナログ情報とディジタル情報の違いを教えるとき、どうしても「連続的 vs 離散的」という説明をする気になれない自分がいました。

ところがここ数年、自分がつくってきたカリキュラムを資料化する作業に取り組むなかで、アナログ情報とディジタル情報の本質的な違いは、やはり別のところにあるという考えがわたしのなかではっきりしてきました。

その糸口は、わたしの授業の主要テーマに包含されていました。それは以下のような考えです。

コンピュータという装置の原理は、その物理的な実装とは独立したものであり、それは人間の精神活動である思考のなかに存在する。

このテーマを深めていくなかで、アナログ情報とディジタル情報を分けるものは、その情報が情報そのものであるのか、それとも対応する概念を示すシンボリックな情報であるのか、その違いであることがはっきりしてきました。

この事実が見えにくいのは、ディジタル情報の創造主であり、また認識主体である人間の精神活動を見ようとしないからなのです。

その文脈により、ディジタル情報には様々な定義があり、大きなゆらぎがあります。

誤解を回避するために、ここでは、ディジタル情報をどのように定義するべきかの検討ではなく、アナログ情報とディジタル情報の違いの根源的な本質を考察する方針であることを確認しておきます。

根本を考えるわけですから、あらゆる文脈に応用が可能な考察となるでしょう。

ディジタル情報は人間によって定義された識別情報

ディジタルコンピュータを構成する論理装置は、ギヤーやカムを使っても実現できるし、電子的なスイッチによっても実装可能です。わたしはコンピュータの授業の冒頭で必ず、生徒たちと一緒にシーソーの仕組みを使って論理装置を組み立てています。

たとえば、片側が下がると反対側が上がるというシーソーの性質を、NOT論理の働きと見なすことができます。しかしこれはあくまでも「見なし」たのであり、シーソーの動きにNOT論理を人間が自らの思考を用いて投影しただけでしょう。シーソーの動作そのものは、軸受けに取り付けられた板が、板の端に加えられる力によって一定角度回転しているにすぎません。

わたしたちは、シーソーのレバーが上がった状態を1と定義することもできるし、0と定義することもできます。どちらでも定義に一貫性が保証されている限りにおいて、それを組み合わせた論理装置は正しく動作します。定義が0であろうと1であろうと、装置の動作が変わるわけではありません。

レバーの状態に意味づけをしているのは、人間の思考だからです。

ここでしっかり確認しましょう。0という論理状態、1という論理状態は概念です。概念は人間に属しています。

レバーの上下を0や1と定義する作業は、レバーの状態を識別子として、0ないし1という概念をその識別子と結びつけることを意味します。それらの定義以前に存在するのは、レバーの上下運動のみです。識別子と概念を結びつける作業ができた後になってはじめて、わたしたちはレバーの上下の状態から、0または1という概念を引き出すことができるわけです。

これがディジタル情報です。そして、これは何かに似ています。

わたしたちは文字を学習することで、Aという記号にéɪという音素の概念を結びつけます。この行為は、レバーの上下に0や1を定義することと何ら違いはありません。ですから、紙の上の文字もまたディジタル情報です。

わたしたちは、Aという記号を認知したときにéɪという音素の概念を表象します。同様に、シーソーのレバーが上がっている状態を認めたときに、それに先だって定義した0または1という概念を表象するのです。

このように、物理的な対象をもたない概念と結びついた標識も、ディジタル情報であるわけです。アナログ情報を抽象化したものだけがディジタル情報ではないことを、ここで確認しておきたいと思います。

もしかしたら、「この議論は情報のシンボライズの有無にこだわりすぎているのではないか」と思う人もいるかもしれません。しかしこの検討は不可避です。

冒頭で冗談のように扱いましたが、グラスの中のまったく変化しない水位もアナログ情報ですし、こわれた時計の静止した針が文字盤上につくる角度もアナログ情報であることに変わりはないわけです。アナログ情報の本質は、それが量的な情報であることです。

このことから、変化する情報が標本化されて断片化されればそのままディジタル情報になるわけではないことが明らかとなります。標本化はディジタル情報の必須要件ではないのです。

ディジタル情報へとジャンプするためには、そこに表現されている事象を特定の概念と結び付ける仕組みが必要であり、それをシンボライズの仕組みとしてここで考察しているのです。

要点は、情報に概念が結びついているか否か

ここまでで以下のことが明らかになったと思います。

  • アナログ情報:その量的情報がそのまま目的の情報である。このようなあり方をしている情報がアナログ情報である。
  • ディジタル情報:情報自体は識別子=IDであり、それ自体に意味はない。その識別子と結びつけられた概念が目的の情報である。このように、情報と概念が対になっている情報がディジタル情報である。

アナログ情報

明暗の度合い、色の調子の度合い、角度、質量、嵩、距離など

量的情報情報そのもの
*量的変化がそのまま情報の劣化となる

ディジタル情報

文字、数字、記号、識別パターンなど(特定の概念と結びつけられたID情報として機能する)

ID情報人間の思考によってIDと一意に結び付けられた概念
*ID情報が特定できれば、対応する一意の概念を劣化なしに取得できる。

いかがでしょうか。これでもやもやがきれいに晴れました。

もしかしたら、「アナログ情報だって、数値ではないか」と思う人もいるかもしれません。メジャーには目盛りがあり、時計の文字盤にも数字があり、メスシリンダーにも目盛りがふられていて、簡単にアナログ情報を数値として取り出すことができるからです。

確かに紛らわしいですが、取り出された情報を数値化した時点で、すでにそれはディジタル情報なのです。

そこでは、標本化したいアナログ量に対して適当な単位量を用意し、その単位で割った商を情報として取り出すという変換作業が行われているわけです。この時点で数値情報は標識として客体化していませんが、数値の概念が観察者に表象されている時点で、これは明らかにディジタル情報です。

このディジタル情報がアナログ情報として見なされる習慣が定着したわけは、読み取った値を観察者が数値として記録しないかぎり、対応する数値標識が客体化されないためです。

「目分量」という直観的なアナログ量の認識方法がありますが、こちらと比較すると上記の考えがわかりやすくなると思います。

離散的だからディジタル情報、ではない

こうして考えると、離散的情報だからディジタル情報だとする考え方は、本末が転倒していることがわかります。

ディジタル情報は、その本質が識別子だから離散的なのです。その逆ではありません。

たとえばASCIIコードのAとBである、4116と4216というコード自体には、相互に関係性がありません。それらは、まったく異なる数値であってもよいわけですし、そもそもそれは数値である必要さえなく、音素概念を識別するためのパターンとして機能しさえすればよいわけです。

ABCの序列を表現するために文字コードに序数を割り当ててあるのは、アルファベット集合というより高位の概念体系を表現するためであり、それはまた別の考察要素です。

概念から切り離されたディジタル情報は意味をもたない

そろばんの珠、紙の上の文字、磁気情報のパターン、メモリー上のビットパターン、いずれもがディジタル情報です。そろばんでは、珠の位置と数の概念が結びつけられています。紙の上の文字は、その字形と対応づけられた音素や意味の概念を指し示しています。磁気パターン、ビットパターンしかりです。

わたしたちは、各桁ごとに4つあるそろばんの一珠(いちだま)がひとつ上がっている状態を1だと知っています。2つだと2です。そして五珠(ごだま)が上がっていれば、それは5を意味し、一珠の示す値とあわせて10進数の1桁を表現していることを理解します。

これは、歴史を重ねてつくられてきたそろばんの定義を、わたしたちがあらかじめ概念としてもっているから理解できるわけです。それぞれの珠の状態がつくり出す一定のパターンと数値の概念を、人間の思考が結びつけるのです。一定のパターンと数値概念が一意のかたちで結びつくあり方は、整数値をIDとして用いるあり方と同じです。

このように、ディジタル情報自体は識別子=IDのようなものであり、それ自体は何の意味も持たないわけです。その情報が意味をもつためには、その識別子と概念が結びつけられる必要があります。それを結びつけるのは人間の思考です。

つまり、人間が介在しないディジタル情報は、何の意味も持たないということです。

このことは、コンピュータ技術を理解する上で、たいへん重要な意味をもちます。

人間にとって意味のあるディジタル情報であっても、コンピュータにとってそれは意味のないパターンでしかないということです。そのパターンと結びついた概念は、人間のなかにのみ存在するものだからです。

この意味において、コンピュータが2進数で動作するというのも幻想ということになります。

コンピュータは2進数で動作していない

2進数のビットパターンを2進数の数値概念として見ているのは人間だけで、コンピュータにとってはこれもあくまでもパターンにすぎません。メモリーの特定の状態に0また1という数値概念を結びつけ、その並びを2進数と見立てて操作する。これはそろばんの珠を動かして、計算を行うことと何ら違いはありません。あくまでもコンピュータはそれをパターンとして処理するのです。

人間は、2進数の演算法則に沿ってそのパターンの操作が進むように一貫性をもった手順をプログラムとして用意し、それをコンピュータに実行させます。コンピュータはプログラムが指示するとおりに「パターン」を操作します。そこに意味はありません。操作の意味はコンピュータの外に、「そのパターンをこの通りに操作すると、2進数の演算と一致するパターンを生み出す」というプログラマーの思考内容として存在するのです。

「プログラムを読めば、そこにそのロジックを認めることができるのだから、コンピュータ内部にそのロジックが存在するではないか」と考える人もいるかもしれません。それは、「プログラムを読」んだ主体が読み手自身の精神活動であることを考慮していないために、そのように思えるだけなのです。

プログラム自体にはロジックはなく、あるのはただ離散的な手順の集合です。それらの離散的な手順を統合してひとまとまりのプログラムとして把握し、目的概念と結びつけられるのは、思考存在としての人間だけです。

プログラム、すなわち離散的な手順の集合が実行されると、その結果として一定のパターンがメモリー上に痕跡として残されます。

これがコンピュータの内側で、実際に起こっている出来事のすべてです。

この痕跡を何らかの方法で人間が読み取り、そのパターンと結びついた数値概念を呼び出し、それを自らの内に表象することで、その情報に2進数の演算の結果としての意味が与えられるのです。

どんなに高度なAIと言えども、この例外ではあり得ないわけです。

では、生成AIが返してくる高度な応答は何なのか。それはここの主題から外れますが、情報の生成と認識の主体である人間の精神活動に軸足を置いたこの考察は、コンピュータ技術や生成AIの本質を解明するための強力なツールとなることと思います。

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